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秋の雨の日の人の声真似 麒麟が来る。

秋の雨の日の人の声真似 麒麟が来る。

俺が働いているコンビニの先輩が俺に当たりが強い。俺の顔が気にくわないらしい。俺はただ、ここちよく仕事をしたいだけなんだ。俺はただ、最高のビジネスマンになりたんだ。俺はただ、お客様の笑顔が見たい。俺はただ、あの大学生の子がまた、ここに来た時に〇〇円になりますといったときにさっとお釣りを渡すときに手を握りたい。幸い顔はいい。気持ち悪くはない。俺はただ、楽しく生きていたいんだ。あの窓から見える景色が小雨交じりでも晴れ間が少し出て、虹がだたり、小雨の中のブレーキランプが淡く輝いていればそれでいい。俺には俺の幸せを追求する権利がある。俺には俺が俺である義務がある、俺はそんな店のバイトだ。俺はただ、小雨の中の景色に感動していたい。ギラギラしたものなんて要らない。

 なんや。あのガキ。ほんま。いてまうぞ、なにゆうとりゃす。オラ。小藪ゆうたら、別れや。俺は、この店のテンちょーやぞ。こら。おい。小藪やいうてんねんぞ。ごら、名古屋知らんのか。名古屋。歩けんようにしたらすぞ。

 何語だよ。標準語話せよ。わかるだろ。リーダーが来た時、はなしてんのしってるぞ。方言なんてキャラ付けだろ。

 いてまうぞ、こら、いうとんことわかんのか。たわきゃす。オラ。小藪やぞ、おら。言葉は心を映す。方言を話すものはこの地域に誇りをもっているのだろうか。しかし、ここで思うのは標準語を話しても方言の方が分かりやすいと感じる事もあるということである。実際、青年も小藪さんの言うことが分かっているし、意味も伝わっている。この書き言葉の言葉遣いもまた、一つの様式であるとするならば、小藪さんはそんなコミュニティに属しているといえる。そして、それをわかる青年もまた、そのコミュニティに属している。と菅あが得る事が出来る。そう思うと青年は自分が怖いと思った。自分が深いだとおもったものも許してしまっている自分がいる事に、そういうものだと映画の字幕のようにパッと分かってしまっていた自分がいる事に驚いた。それはつまり、それを覚えなければならないということなのだろうか。のし上がるときは小藪さんのように人によって態度を変え、多少、なまりはしていても、敬語を持ちいなければならない。ならないといったがそれはルールであった。声真似配信を聞いていても、話をしている人は話し方が丸い。丸めなければ角が立つのだ。と思った。青年は声真似配信をよく聞いていたなぜなら、ファンシーで自由な緩く聞けるラジオのような気がして心地が良いからである。また、声真似配信の方は目線が近いので大変良いと思っていた。それを聞く間も世界は回り、夜はふけ、秋の風は日増しに冷たくなり、寒くなる。内裏が開き、将軍を決める評議が開かれる。会議、踊るも会議は進まず、将軍はどちらの手に渡るのか。戦国の世と言うは勇ましくロマンがあるが対岸の火事、遠い国のニュースなら、ほほえましいが我がこととなると武将が憎くてたまらない。関係ないと姉は言うがそれを決めるのは誰であるか。煮え湯を飲むのは誰であるか。それを考えたとき、俺は戦国武将が憎い。秋の代は寒い。こんな日はホットミルクに砂糖を多く入れて飲むとしよう。あな、憎し。ホットミルクと名月や。声真似に思いをはせて。耳に乗せながら。遠くで名古屋弁が聞こえる。ホットミルクがあたたかった。湯気を唇に、ほほに一つ感じた。ああ、君の手のぬくもりはこんなぬくもりか、ああ、あたたかい。顔を見ぬ君へ。

 

 明日の麒麟が来る。楽しみです。この物語は、戦国時代の価値観、息遣いの中に現代社会の堅牢さが隠れていて楽しいです。

 

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