このお話は、↓↓のお話の続きです。
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この事には、僕自身、納得していない。
僕は、この春から、ワコク友好大同盟に、紅鷹党の代表の一人として、仕事をしてきた。
紅鷹党は、党内では、外国人を過度に恐る風潮も、まだある。しかし、僕は、その中にあって、倭国のためを思って、ワコク清和党のせんろ先生をはじめ、大変、勉強させてもらっている。僕も、かなでやまの生まれであるし、党は、違っても、せんろ先生の近くで、政治を学ぶことができるので、僕としては、かなでやまにいたかったのだ。
しかし、先週の金曜日、せんろ先生から、
「君は、来週から、紅鷹党の小野県連から、同盟に参加してくれませんか?あなたは、若い。他のところまできてください。」と、言われた。
僕は、せんろ先生がそういったとき、僕が甘かったなと思った。他国の王様や清和党の議員たち、それから、各国の有志の方々に、揉まれる中で、僕は、ある種のやりがいみたいなものを見つけはじめていた。
せんろ先生のことも、最初は、噂通りの頭の切れる少し、嫌な男だとばかり思っていて、
せんろは、ワコクの国を外国人にいいようにさせるつもりだと思っていた。
しかし、せんろ先生と、勉強会や講演会に参加していく中で、この人は、国のことを1番に考えていて、他国とも、仲良く、友好的に、やっていこうと、しているのだ。ということが、よくわかり。これが、政治家の姿かと、思ったほどだ。せんろ先生と、一緒なら、僕も、成長できると、信じていた。そして、党は、違うけれど、紅鷹のためになると、信じていた。
けれど、先週の金曜日、僕は、異動になった。
僕は、かなでやまの生まれだ。
かなでやまのために、政治家になったのに、
なぜ。と思った。
けれども、いつまでも、むくれては、いられなかった。僕は、荷物をまとめて、アパートを引き払って、小野道へ向かった。
小野道というのは、しろしま県にある、港町で、センゼンは、ワコク防衛軍の本陣、大本部があったところだ。その地域では、清和党より、我ら、紅鷹党の方が、優勢であった。
まあ、僕は、紅鷹の議員であるから、当然と、言えば、当然だ。僕は、やはり、党の方針にある程度、従わねば、ならないと思う。
けれども、海外の方は、皆、優しい。
僕の見方が甘いのかも、知れないが、ワコクをとって食おうなど、という人は、いないように思う。けれども、何が起こるか、わからぬのが、政治である。けれども、外国人、観光客たちの笑顔を見るとき、彼らは、本当に、敵なのだろうか?、せんろ先生と、一緒にいても、せんろ先生は、彼らも、また、生きている。
いいかい?安達くん。僕らは、ともに、この世界に生きている。であるなら、共に、生きても、いいと思わんかね。文化の違い、習慣の違いから、うまくいかなくなることも、あろう。
けれど、我々は、考えることができる。
戦争や戦は、今の時代には、そぐわない。
始めることは、簡単だ。けれど、一度、始めると、血が流れる。そんなことをするのであれば、頭の知恵を絞り、共に、寄り添って、生きる方が、良いと、思わんか。?と、言われた。
その時のせんろ先生は、僕に、期待していると、おっしゃった。
僕は、その言葉をいただけた。ことが、大変、嬉しかった。
その時、僕は、こんな人に、なりたいと、一歩でも、近づきたいと、思った。
あまり、料理には、そんなに、関心が、ないけれど、その席で、食べた、しゃぶしゃぶは、大変、美味しかった。
そんなことがあったことを思い出していると、電車の車掌さんが、、次は、小野道。小野道。と、言った。
僕は、そこで降りた。目の前には、大きな、綺麗な海が見えた。
駅の近くに、こんなに、立派な海があるのか。と思った。
海には、海外の船がたくさんあった。
僕は、噂には、聞いていたが、小野道の港は、立派だ。と思った。
僕は、街に出た。 日差しが、眩しいので、かなでやま大学時代の学帽を被った。
なんだか、古い自体の、書生のような帽子だ。
僕が、生まれる、30年前までは、書生という、人たちが、わこくには、いたらしい。
書生と、いうのは、夢を追いかける学びに生きるものという意味で、夢のある若者は、政治家の先生のお宅などに、お部屋をお借りして、そこで、勉強に励んだそうだ。
僕は、その時代の彼らに憧れているかの、僕の敬愛する井川 ひさし先生も、書生であったとか。僕は、その時代の彼らに追いついているのだろうか?僕は、いわゆるモダン時代の青年である。どちらかというと、草食系と、言われるかもしれない。そんなことを思っていると、耳元で、小野道の魚屋さんが、選挙カーみたいに、車の屋根についたスピーカーから、
僕は、それを聞いた時、僕の小さい頃にも、こんな人が、いたなあ。かなで山では、ないけれど、ここにも、そういう人が、いたんだなあと、思った。
その時、せんろ先生の言葉が、頭の中に、浮かんだ。
君は、色々、見て回りなさい。あなたの周りには、たくさんの人が、頑張っています。
それを見て、学びなさいと、いう言葉が、浮かんだ。
小野道の町は、かなでやまの町と、よく似ている、けれども、違う。海が、船が、近い。
かなでやまの生活の中に、山があるように、小野道の人々の生活には、海があるのだ。
そう思うと、ふと、ワコクは、広いと、思った。
そう思うと、また、海を眺めたくなった。
僕は、港へ戻った。
時刻は、十六時だった。
夕日が、キラキラと、水面を照らし、
海が、オレンジ色に綺麗に光っていた。
僕は、それを見て、美しいと思った。
僕は、それを見ている時、声をかけれた、
綺麗な女性だった。
そして、こう言った。「何を、みとりんさるんですか?海、綺麗じゃ、思います。書生さんは、海、好きですか?私は、ここにようきて、
ようみとります。ここに来ると、嫌な事も、不思議と、忘れてしまう。不思議じゃのう。思って、よう、みとります。ええ眺めやねぇと、思って。」と、言った。
僕は、その人が、そういうと、
「いや、僕、今日、初めて来たんです。小野道へ。ワコクに、こんなところあったんだ。」と、思って、驚いています。」と、言った。
僕が、そういうと、その女性は、「ほうじゃったんですか、どこから?と、言った。
僕は、その人に、「かなでやまです。」と、答えた。
僕が、そういうと、その人は、「ほうなの?私のピアノの先生と、同じじゃあねぇ。アスミ先生、言うなまえです。知っとりますか?と、言った。
その時、僕は、「あー、ピアニストの。僕、結構、彼女のピアノ、聞きます。」と、言った。
そういうと、その人は、先生のピアノ、ええですよねえ。なんか、よう眠れるいうか。と、笑った。
僕は、その時、なんで、眠れるの?と、思ったが、そうですね。と、言った。
これが、女優の広瀬 マミコさんと、僕の出会いだった。
彼女は、女優というけれど、女優らしくない。
けれど、そこが、可愛いと思う。
せんろ先生の言う事も、よくわかった。
机の上では、わからぬ事も、ある。と、言う事だ。
そのあと、僕は、小野道の市長さんのところへご挨拶に行った。
あの、紅鷹党の古老が、ここに、いらっしゃるとは、思わなかった。
僕は、この小野道で、頑張ってみようと、思う。
僕は、この地で、ある言葉を覚えた。
それは、がんばりんさいね。と言う言葉だ。
僕は、この言葉が好きだ。
頑張れよ。や、頑張ってね。より、飾らないと思う。いや、これは、広瀬さんの言い方の問題かな?けれど、僕は、この言葉が、好きだ。
柔らかくて、可愛らしい響きのこの言葉が好きだ。