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女の映画 キリンが来る。

女の映画 麒麟が来る。

光秀は思った。あの寺で出会ったときに医術を学んでいる少女を見たときに思った。なぜ、あの子があの場にいるのだ。千利休や名だたる大商人の中にあの子がいる。身分不相応だ。なぜ、あの子供がいる。いつも、隣にたって笑っていたあの子が見ないうちにいや、見ようとしなかったのか。立身出世を果たしていた。なぜだ。あの子には世の中を明るく照らす、朗らかに過ごすという漠然とした夢しかなかったはずだ。あの子は刀を手にしたことも鉄砲で人を殺したこともないはずなのに。なぜ、出世した。なぜ、この場にいるのだ。私は縦横無尽に駆け回り、領土を広げ、室町幕府安定のため、官僚制度を改め、老いた官僚ではなく若者が意見を出しやすいように幕政の改革を行った。おかげで私も出世した。なぜ、あの子があの場所にいる。あの子は誰かの隣で笑っていればよいのに。私が野を走り肉をさいている間に。あの子はたやすく労さずにここへ上がったというのか。しかし、知らなかっただけか。あの子がそれだけ才を持ち、人に慕われ、それがいつの日か輪となり、大きな力となっておしおせた。何年もあっていない。あっているが、その笑顔は私に向けられたものではなく、私の向こうの大きなものに向けられたものだったのだ。私が刀を振るい硯に墨を作り、紙に文字を流して時にあの子は努力を戯れを交流を続けていたのだ。私はすべてを分かった気でいたのか。書き表すとそうなるが私の見つけた夢など、やっとはっきりしてきた目標など、小さなものだったのか。ああ、長く過ごしたかった。あの子が一歩ずつ成長し時の中で泳ぐ姿をみていたかった。その場に固まってあるものなどないのだ。山から野へそして海へ水が流れていくように刻々と変わって生き物なのだ、この何年かであらゆるものが変わった。かくいう私も信長様はじめ、将軍様、そして三河の松平元康様、その配下のご家来衆、三河の里の国人一同と時の流れや文化についてそして、世の中にある一瞬の輝きについて微力ながら学んできたつもりだ。しかし、それは大きなものの中では小さなことにすぎなかったのか。そう思うと腹が立つ。なぜ、あの子があの場所に、あの寺のあの茶会の席にいるのか。納得がいかない。しかし、あの子には夢があった。世を照らし、人々を励ますという夢が。これからあの子はもっと大きくのびやかに変わっていくだろう。しかし、私も同じところにはいられない目下の目標は仏教勢力を抑え、金の流れをこちらに引き込むことだ。力を尽くさねば。しかし、あの子は、やってのける。明るい言葉を使い、誰にでもわかる平易な言葉で誰にでも響くように。そこが違いか。しかし、その違いを受け入れよう。大きな怒りを添えながら。しかし、私にも目標が見つかったところだ、些細なわだかまりでそれを痛めてしまってはならない。これは途中から始まった物語、すきな場面が40分ほどで切り替わってしまった映画。そんなことはない。今は言い聞かせる形になっても前に進もう、怒りを添えならも、この映画をみるために私はここに立っているのだから。怒りを隠しながら、添えながら、喪失に耐えながらも。大きな国を作るために。